昭和41年08月27日 朝の御理解



 もう随分以前のことでございますけれども、家内の母の家内の里が奈良のシモグチというところにあります、大阪から二時間ばっかり、離れたところです。奈良からも同じようなところ、あの山ん中そちらのシモグチにお参りした時に、シモグチの教会というのがあります、小さい教会です。そこのおじいさんの先生でしたが、ここの信者でこういうおかげを受けた人があります、と言うて話しをしておられたことがあります。
 まぁ筑後川とは変わらん位の大きな川がございますね、吉野川といわれる、その橋を渡っておった所がですね、急に途中からですね、何か走り出したいごたる、衝動にかられたというんですね。ですからその橋を途中から、かけ足でその通り抜けたと同時に大音響と共にその橋が落ちたという。信心をしておるとですね、やはりあの神様がそういう働きを下さるんですね、けれどもその自分の心ん中にそれをキャツチでけれる状態というものがありませんと、やはり難を難でうけなければなりませんですね。
 信心さして頂いておると、段々人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理に合う信心をせよとこうおっしゃる。万物の霊長としての、その万物のオサとしてのものが、ほんとうに発揮できれる、そこにあの信心があると思うですね、私は。昨日田中工務店の奥さんが毎日参って来ます。それで昨日そのどうも熱があるとこういう訳ですね、それで病院にちょつと注射の一本もうってもらおうと、思うて参りましたところが丁度、先生がお食事中でございましたから、帰ってまいりました。
 それで、いつか先生が言うておられた、今私が申しましたようなことを、ふっと思い出したんですね。あぁこりゃ神様が注射をせんでもよいぞと いよんなさるじゃろうと こう思うて帰ってきたんです。したら先生帰ったらその熱が下っとったと、こういう訳なんです、それで、そのまま行かずにおりますと。あちらのお母さんに、いや おばあさんになられる方が善導寺の教会のもうながーい信者でございました、もう九十五はなられてからでしたでしょうね、亡くなられたのは。
 もうそりゃ私の目に縋っております、おばあさんですけれども、ほんとに素朴なよい信心をしておられましたが、もうほんとにあの金光様金光様でその、ま 生活される、もう他の信者さん方はもう実に、そういうところが、そのなんですかね、気のきいたところはなくても、もう金光様がその生活の中に入り込んでしもてござると言った様な感じ。婆が申しよりましたがち、もうどうかありゃ御新米、もうどうかありゃすぐ御神酒さん、もう怪我でもすると、すぐお土をつけて、そのおかげを頂きよったと。
 自分達の子供ん時は、それがその最近は、そういうことが段々なくなってから、こちらにお参りさせて頂くようになって、そのことを思わして頂きますが、うちの婆さんなんかは、ほんとに、おかげをうけておったとおもう。もうどうもなかった、それはあのお食事をしょんなさったらですね、お食事をしなりなり、すうっとこうそのお国替えでも、そげな状態だったそうです。もう実にやすらかな、やすらかな、そのまお参りだったという話しを昨日しとられましたが。
 それで私共がその天地の親神様の御信心をさせて頂くということは、そうした自然にさからわない、自然に即応した生き方、そういう生き方から、私は自分のこの霊長としての、この霊徳というかね、そういうものを自然の中から、掴めるというか、キャツチ出来れる状態が段々強くなって来るとこう思うですね。例えば私共があの御祈念をさしてもらいます時に、ま 御祈念一通りお祈りの内容が済んだと、それで ま 頭を上げてから、柏手うとうかと思う時に横で自動車がダーッと通ると致します。
 そして私がその音の止むまで一応待ちます、そして柏手します、これは自然がなにかちょつとこうなにか、邪魔が入ったという感じが致しますもんね。信心さして頂くならば、そう言う様な所を一つ、あの心掛けさして頂かなければならん、ま いうならば、信心ばかりはこつあいそういう信心をほんとうに体得して、霊長としての値打ちを作って行く、一つのこつあいというてもよい位だ、と私しゃ思うです。
 御祈念が済んだから、拍手うとうと思う時に、さぁっと何かその大きな、横を自動車が通る音がしていても、私はそれをちょつと さけようとこう思います。そう言う様な日頃のですねいき方、こりゃもう一時が万事に様々な事があろうと思います。その田中さんの病院のそのお話じゃないですけれどもね、病院にわざわざ行ったんだけれども、先生がお食事中だったと、でスムーズをちょつと欠いた。はぁこりゃ神様のもう行くなち言よんなさるのかも知れんとじゃからと、思うて帰ってきたら熱が下っとったと。
 これがまあ注射を打つの、打たないのと、なら例えば私が申しました、例えば注射を打ってもです注射を売った太めに、それがどの位身体に、その弊害を与えるか分らん事が実はあるんですからね。やっぱり神様のおかげを頂いてからの注射であり、薬でなからなければやっぱりいけません、そう言う所がですもう些細な事ですけれども そう言う様な事で、そのはっきり右左きめさして頂けれると、ま、自然がいつも私共に呼びかけ、囁き掛けておって下さるんだけれども、それが自分の心に受け止めきらない、ね。
 もう十五、六年前、北野の教会ででした、お話をさして頂きよります時に、ある方が参っみえて、大体この金光様ちいう神様、天地金乃神様という神様は、どげな風な神様ですかちいうて、聞かれたことがございました。皆さんはどう答えられますか、ね、朝晩金光様と唱えさしてもらい、天地金乃神様とこう お唱えさして頂いておる、その唱えておる神様を、どげな風な神様ですかと聞かれても、中々ちょいと説明を、さぁそりゃ天地の親神様ですけんでと、言うだけではやっぱりいかんですね。
 私実はそれが そういう神様であると言う事が分からなければ、今日私が言おうとしておる所のです、あの分からないとこう思うんですね、ですから私はその事をどう説明したか、ま、信者さん信者さんによってそのやはり分かるように、説明しなければなりませんから、すぐあの御神意を伺いましたら、御心眼にあの燕がこう羽根でこう土を掘ってですね、その中にこういかっていると、言う様な所を御心眼に頂いたんです。
 それで私もそれを頂いてから、はぁこりゃそうだとこう思ったんてすけれども、もう一つはあの水晶の山を頂きましたね、あの水晶というのがあるそして神様が御理解にですね、この例えば見事な水晶をどこの彫刻屋がこんなに、彫刻をしたんだかと、燕の例えば死んだ燕と言った様な、亡骸と言った様なものを 皆んなが見た事があるかと、それで私そのこを申しました。もうお年を取ったおばあちゃんでしたから。
 ああた方はどうですか、あの夏になると燕が沢山やって来るですけれども、あの燕の死んだという姿を見た事がありますか、と言うたら、ほんにそげん言いなさりゃ見た事はありません、とこう言う誰だって見たこたなかろうとこう思う、成程子供がいたずらしてから、その鉄砲でうったり、又は棹を使ってからそれにぶっかってから、落ちて死んだというのは見た事があるけれども、自然に生きて自然になくなっていくもんの姿というものは、神様は見せなさらん。その位にこう自然に生きていくと。
 自然に生きて行くと言う事は、素晴らしい事なんです。自然にさからわないで生きて行くと言う事は、そんなに素晴らしい事なんだ、天地の親神様のおかげを頂いて、天地の御守護の中におかげを頂いておる、それが毎日毎日有り難い、有り難いと言う様な生き方をすれば、それこそ田中さんのお婆さんじゃないですけれども、それこそどうもない、もう九十幾つにもなってからいわばご飯を頂き、頂きそのふうっと頭を下げられたらそれぎりじゃつた。と言う様にですね、そのおかげを受けられると言う事。
 これはもう、そのお国替えの時だけのことではありません、一時が万事にそういうことです、天地の親神様という方はそう言う様なお方。もう自然に生かして下さるためには、自然に又けして下さるはたらきをして下さる神様なんだ。それを私共が不自然な生き方、神様がほら右がよいぞ、左がよいぞと仰って下さっておっても、それを聞き取れん、受け取れるだけの内容がない所にですね。実を言うたら、私共の心の中には、ひとつの霊徳というものが、誰の心の中にもある。
 霊長としての値打ちはあるんだけれども、その霊長としての値打ちを発揮しょうとする精進、努力をしない。ある時の御理解にも頂いた、冷血動物だと言われる蛙やら、蛇のようなものですら、降る照るの事が分かるというではないか、まして人間万物の霊長でありながら、降る照るの事一つが分からんと言う様な事では、いかに霊長としてのその霊徳がです、我情我欲のために、わがままな生活のために、濁りに濁っておるかということを、知らなければいけないということを頂いたことがあるです。
 虫けらもあぁいう そのま冷血動物だと言われるようなものでさえ、ちょっと雨が降るという時には雨を予告する、大水をはぁ蛙が上さんあがる時には、私共申しますでしょうが、こりゃ大水のいるかもしれん、蛇が木にどん登る時には、雨が降るじゃろう、という風にもう蛇自体が知っている、まして人間は万物の霊長というのですから、俺は万物の霊長だと、いばっておるだけじゃつまらん。
 霊長としての値打ちをつくっていくために、本気で霊徳を発揮できれる、いわば精進、いわゆる我情我欲をとりはずさして頂いて、生まれながらのその霊徳というものがです、霊気を放つようにならなければならん。神様がいつも絶えず囁き掛けて下さる、それが私共の心の中にキャツチできれる、そう言う様な事を、私共が分からして頂いておってです、又一つのこつというか、精進としてです、自然との密接な関係というものをいつも考えて、もう御祈念が済んだからというて、拍手。
 もうこれで終わろうと、こう思うた時でもです、そこにちょつとと邪魔があったら、又何かお祈りをする事を忘れてはいなかっただろうか、こげんともお願いしとかなきゃならなかったのじゃなかろうかと、先ず思うて見たり、又はその行き過ぎるを待って、その音の消えるのを待って、そこに一つのきりがついて、例えば立ち上がると言った様なですね、自然との繋がりを、いつも密接にするために、そう言う様な、事柄でも、おろそかにしてはならない。
吉野川のその橋が落ちた時にです、そこを通っておった人が、もし信心の無い人であったら、その橋ともろともに、押し流されたかもしれませんですね、けどもその人が信心があった、そしてそれをこれに感ずるだけのものが、日頃でけておった、なんとはなしに、そういう衝動にかられる、なんか走りたい様な衝動にかられる、それで途中から走りだした、その橋を渡り終わったと同時に。
 大音響と共にその橋が落ちた、と言った様なですね、それには、そういう確かにですね、はたらきがあるんです。さぁ何でもある時に、ある時にはですね、必ずその災難の前に、予知というのがあるです、もう前知らせというのがあるです。例えばもう蒸し暑うて、蒸し暑うて堪らんと言う様な時には、はぁこりゃ降るかもしれんなぁとこういう風に、自然が教えて下さっておるんですよ、降るぞと言う事を。
 えらい真暗うなってきた、こりゃ夕立が来るじゃろうか、と言う様にです、夕立が来る前には、先ず真っ黒い雲が出るんですよ。ほんなカンカン照りよるとに、降ると言った様な事は先ずないです、そこにちゃんとそう言う様な、自然の中にはそう言う働きがありますから、そのそういう働きその働きと、こう一つになれておれれるような、私はいき方で生活さして頂くのが金光様の御信心を頂い、天地金乃神様を拝まして頂いておる者の生活態度であると私は思うですね。
   どうぞ。